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ピル承認秘話

ピル承認秘話
–わが国のピル承認がこれほど遅れた本当の理由(わけ)–
<第2話>世界で最初にピルの情報を得た日本

第770号
ピル承認秘話
一般社団法人日本家族計画協会 会長
北村 邦夫

 1955年10月24日から29日まで、第5回国際家族計画会議が東京で開催された。準備委員長は加藤シヅエ参議院議員。開会式で、川崎秀二厚生大臣、安井誠一郎東京都知事が歓迎の挨拶を終えると、国際家族計画連盟(IPPF)のマーガレット・サンガー会長らが次々と祝辞を述べた。
 注目すべきは26日と最終日29日のプログラムである。26日の午後6時から、東京駅に近接された工業倶楽部で開催された公開講座には「最近の避妊技術の進歩」というテーマで、今では「ピルの産みの親」と呼ばれているグレゴリー・ピンカスが登壇している。
 レオン・スペロフが著わした「A Good Man:Gregory Goodwin Pincus」のプロローグには、その時の様子が臨場感あふれる筆致で次のように書かれている。
 「52歳になっていたグレゴリー・ピンカスが150人の聴衆が見守る中登壇した。別に急いた様子はなく、いつものように、物静かで自信に満ちていた。彼のボサボサ髪と口髭(ひげ)はまだ全部とは言わないが、ほぼ九分通り白くなっていた。目の下には色素沈着したたるんだ皮膚が目立ってはいるが、ほっそりとした体型で服装はビシッと決めていた。そして、はっきりとしたバリトン調の声で話し始めた」。
 話題は世界最初のステロイド剤の内服による経口避妊薬(ピル)についてである。国内からに参加者は500名ほどいたが、この中には、その後、わが国におけるピルの開発に大きな役割を果たすことになる日本医科大学の石川正臣教授、関東逓信病院の松本清一産婦人科部長(晩年は本会会長)もいた。もちろん、当時のピルといえば、黄体ホルモン1日300mgを服用させるものでとても実用に耐えられるものではなかった。ピンカスらは、その後も精力的に改良を重ね、黄体ホルモンにわずかな卵胞ホルモンを加え、世界最初のピル「エナビット10」(黄体ホルモンのノルエチノドレル9.85mgと卵胞ホルモンのメストラノール0.15mgの合剤)を誕生させた。
 筆者は、日本人が世界で初めてピルの存在を知ったのは55年のことだと思い込んでいたが、実はそれが誤りであることを本会の機関紙「家族計画」第1号(54年4月20日号)が教えてくれた。
 これによれば、マーガレット・サンガーが、54年4月13日、当時の厚生大臣である草葉隆圓(くさばりゅうえん・第5次吉田内閣、自由党)に、米国で開発中のピルの話をし、「日本でも早速その薬品見本を輸入されては如何(いかが)ですか」と提案。草葉大臣は「それでは、中央優生保護委員会の分科会が試験に参加することにしましょう」と約束したという。



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