天馬空 ~JFPA職員のリレーエッセー~
天馬空 ~JFPA職員のリレーエッセー~
第838号

 アインシュタインの言葉に「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである」というものがあり、「常識」を辞書で引くと「一般人の持つ考え。普通の見解。」とある。
 さて、私は先日30歳を目前に結婚をし、妻の姓を名乗る「妻姓婚」を選び、長年『連れ添った』姓に別れを告げた。
 大仰な理由はなく、妻は二人姉妹の長女であり、家名が途絶えてしまう事を憂いている親族が居て、一方、私は次男で姓にしがらみやこだわりがなく、喜ぶ人がいるなら妻の姓でもよいと思ったからだ。
 しかし、世間的にみると「妻姓婚」を選ぶ夫婦は5%(※1)に過ぎず、夫の姓を名乗るのが「一般的」なのだろう。
 それは、結婚後の手続きでもよく表れていた。
 運転免許など官公庁での手続きは円滑に済んだが、携帯電話会社など民間になると「氏名変更」と伝えると怪訝そうな反応で手続きの代理と勘違いをされた。
 知人との会話でも、結婚と共に名字が変わった事を伝えると「改姓」の理由を聞かれる場面は多かったが『もっともらしい理由』がなくてはならないのかと『違和感』があった。
 これが、女性なら姓が変わる理由に疑問を持つ人がどれほど居るだろうか?
 珍しい事をしている自覚を持った今でも、好奇の目に無遠慮に晒されるのは、赤の他人の場合は居心地の悪さを特に感じる事があるのが本音だ。
 現代においては「多様性」の尊重は「常識」といってもいい。
 しかし辞書で引いたような「常識」では「理解」や「尊重」とは程遠いのではないだろうか。
 期せずして、一種のマイノリティになった身として自らの「常識」が「思考停止」を引き起こしていないか考える機会を得たと思う。 (荒谷 光(旧姓:芝野))
 ※1 https://www.gender.go.jp/research/fufusei/index.html



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